抽象度と空の定義
こんにちは。先週はメルマガを書くタイミングを逃してしまい、記事を書けなかったので今日は二つ連続で投稿です。
情報量と空の話をしようと思います。
苫米地式コーチングは、苫米地理論に基づいており、とても抽象度が高い理論です。
しかも、抽象度が高いというのは、応用範囲がとても広いということです。
アリストテレスの『範疇論』において、すでにカテゴライズする論理は哲学の中に存在していて、中世のスコラ神学における巨人の一人であるトマス・アクィナスは彼の哲学を受け継いで階層的な世界観を描いています。
現代哲学では、記号論理学でそれを描こうとしている人たちもいます。
フレーゲという人は、述語論理を作ったときに、概念を関数としてみなしました。
例えば、「鈴木湧大は人である」というときに、主語の「鈴木湧大」は「人である」という述語が示している「人」のカテゴリーに含まれますよね。
従って、述語は主語を包摂しているわけです。
だから、「もし鈴木湧大が人ならば、彼は二足歩行をする」という文章を、鈴木湧大をaとして、「xは人である」をFx, 「xは二足歩行をする」をGxとすると、Fa→Gaと表現するわけです。(「→」はならばです)
発想の中に階層が見えて面白いですよね。ここに量化子を入れると、さらに面白くて、「全てのxに関して、xが人間ならば、xは二足歩行をする」という文は∀x(Fx→Gx)と記述され、「あるxに関して、xが人間ならば、xは二足歩行をする」という文は、∃x(Fx→Gx)と記述されます。
ちなみに、こういう述語論理の式がいくつかある中で(前提が与えられているときに)、そレラの前提に推論規則を適用していくのが論理学という学問です。(コーチング全然関係なくてごめんなさい)
さらに余談ですが、僕に論理学を教えてくれた先生が言っていたエピソードを今でも覚えていて、カントは大学でアリストテレス論理学を教えているとき、「この論理学という学問は2500年前のアリストテレスによって完成され、これ以降も変わることはないだろうが、大切なので教える」と言ったらしいです。
しかし、数学を論理学で全部記述してしまおうという壮大な野望を抱いたフレーゲが、その後大きく変えて記号論理学の世界を作ってしまったわけです(笑)
ところで、ここにはプラトン以来の問題がありまして、イデアとイデアの写像は違うなら、イデアは本当に存在しているのかという問いがあります。
これは、述語で表現されているものは本当に存在するのかという形に言い換えることができます。
苫米地理論的には、情報空間は存在するのかという問いですね。
まあ、きっと存在しているのでしょう。以下でその理由というか、この問いが生まれた元凶がどこにあるのかということに関する僕の予想を説明します。(間違ってるかもしれません笑)
存在しているとすると、抽象度の高い概念の情報量はどんどん少なくなっていきますから、この世はより単純な概念によって表現されることができます。
空は、全ての述語になることができるということですね。
つまり、全ては空であるということですね。ここで、実は面白い革命が起こります。
では、空の中身はなんでしょうか。
苫米地理論では、大天才の苫米地博士が、空は有と無の上位概念と定義しています。
西洋哲学において一つの重要なテーマは、この世に変化するものがあるのはなぜなのかという問題でした。「変化」とは何かということですね。
ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いましたが、一方でパルメニデスによれば「あるものはあり、ないものはない」のです。
キリスト教の文脈では、神義論(神がいるならなぜこの世に悪があるのか)として変化の原因は考察されていますし、もう少し時代が近づいてくるとヘーゲルが精神が発展していく過程として歴史を描いています。
でも結局、存在そのものがトップに来るギリシア哲学モデルだと変化を説明できないのです。
だから、アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と述べて、パスカルは『科学論文集』において真空を生み出す実験を示すことでそのアリストテレスの考えを批判しているのです。
二重スリット実験も、この問題に重要な示唆を与えています。
量子は観測される前は波として(振る舞いの可能性が固定されない)、観測されると固体として(振る舞いの可能性が固定されて)振る舞い始めるというものです。
存在自体をこの世のトップに据える哲学的思想は、我々に「縛り」を与えているのです。
その縛りとは、変化を説明できないという縛りです。
「存在するものは存在し、存在しないものは存在しない」(パルメニデス)という縛りです。
しかし、この世は明らかに変化しています。
とはいえ、変化するけど抽象化することができるのです。変化するから抽象化できないのではないか、みたいなイデアに対する疑念を解消するのは「空」だということですね。
全てのものは認識されると変化するのです。(二重スリット実験)
ということは、存在は固定しているのではなくて、関係性が存在の仕方を決めるのです。
まさに「空」ですよね。
龍樹的にいえば、歩く人がいないと歩くという行為は存在しないのです。
そこで存在を先に持ってくるから話がおかしな方向に進むんですね。
言語学者のチョムスキーと発達心理学者のピアジェが、言語能力は先天的なものであるかもしくは抽象化能力によって獲得されるものであるのかというディベートをしているのですが、チョムスキーのUniversal Grammar(普遍文法、以下UG)のアイディアが批判される点もここにあると僕は見ています。
全ての人間が持っている言語能力(文法体系)があるならば、なぜ言語は多様であり、かつ習得のプロセスが段階的に存在しているのかという批判が、ピアジェら構成説を採用する学者たちの批判です。
しかし、抽象化されたUGの文法規則(Deep Structure)は共通するのだとチョムスキーは述べるのですが、想定した文法規則をチョムスキーはどんどん修正していきます(笑)
結局、UGも空なのです。
だからこそ、多様な言語が生まれるし、習得のプロセスが存在しているのでしょう。
変化を説明できない哲学は、我々を過去に縛る可能性があります。
神様が最初に玉突きした時から未来はすでに決定されているという縛りです。
しかし、全てが空であるならば、その縛りから解放されることができます。
僕たちの未来は、決定されていないのです。
未来の存在を決定するのは、関係性なのです。
だから、僕たちはアファメーションやセルフトークによって、未来の世界と関係を構築していくのです。
僕たちは、自分の存在の力によって未来を作るのではなく、自分を変化させていくことによって未来を作っていくのです。
そして、その変化の仕方は、ゴールが決めるのです。
その意味で、認識する人の心はとてもパワフルです。
変化を生むのは、あなたの心だということですね。
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