無限の可能性に開かれる
こんにちは。今回は、エフィカシーの高め方について、もう少し書いていこうと思います。
人間には、エフィカシーが高まる瞬間というものが訪れます。
我々のマインドには、可能性が眠っているのです。
スコトーマの存在は、我々のマインドの基本です。
前回の記事にも書きましたが、仏教では衆生秘密という考え方があり、我々は無明(スコトーマがあること)なので、真理(というか、空や縁起の教え)を自分の中に覆い隠してしまっているのです。
しかし、悟っていない人はそれを自ら覆い隠してしまっているというのです。
本来、全てのものは縁起によって存在しており、空であって、気づこうが気づくまいが、全てのものは空なのです。
しかし、まさに目の前にあるのにそれに気づかずに、ア・プリオリに固定されてしまっていると勘違いしてしまうのです。
多くの人のア・プリオリの考えの根源は恐怖です。
自分には価値があるだろうかと、多くの人は恐怖を抱いているのです。
だから、何か絶対に正しいと確信を持てるものにしがみつきたいのです。
本来は、全てのものは縁起によって存在しているのですから、自分が変われば世界は変わるのです。
にもかかわらず、恐怖によって縁起が見えないから、覆い隠してしまうのです。
そして、なかなか現実は変わらないし、エフィカシーは上がらないとセルフトークを繰り返してしまうのです。
恐怖は、あなたの目を曇らせます。
スコトーマの根源は、恐怖や不安なのです。
しかし、恐怖を感じる必要はないのです。
自分には価値があるだろうかと、思い悩む必要はありません。
イエス・キリストは、神の愛は無償の愛であって、宇宙の全ての存在に降り注いでいると言いました。
イエス・キリストは、旧約聖書の知識もかなりあったようなので、神の教えをよく読み取っていたのでしょう。
イエスの言葉ではないのですが、旧約聖書には以下のような言葉があります。イザヤ書49章なのですが、このように書かれています。
「14シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
15女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」
誰しも、自分の価値に不安を抱く時があります。自分の人生なんて全然ダメだ。終わりだと(笑)。
そんなことはなくても、心の中に焦りがある人は多いのです。
何らかの自分の中のア・プリオリな価値(お金持ちでなければ、いい人でなければ、強くなければ、綺麗でなければ、いい子でなければ、etc)に縛られています。
それは、自分には何の理由もなく価値があると信じることができていないから、沸き起こってくる不安なのです。
しかし、あなたの母親は赤ちゃんだった頃のあなたを観て、無条件の愛を降り注がなかったでしょうか。もしかしたら色んな事情で降り注がなかったかもしれませんが、キリスト教は神はどんな存在に対しても無条件の愛を降り注いでいるというのです。
「たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」
あなたには、無条件に価値があるというのが、前節の神のメッセージです。
仏教では、全ての存在は縁起によってあるのだから、あなたと宇宙は等価の存在だと言います。
全く同じメッセージですね。
我々はスコトーマが外れたとき、その事実に気づくことができるのです。
コーチングが始まるのは、ここからです。
多くの人は、劣等感からゴールを抱きます。
しかし、だからスコトーマでエフィカシーが上がりにくいのです。
劣等感に縛られていては、どんなに思考をめぐらせても、現状の内側のゴールしか生まれてきません。
だって、その苦しみの解消しか興味がないのですから。
どんなに頑張っても過去の延長線上です。
しかし、本当はそんなものを忘れたところからスタートするのがコーチングです。
だから、「悟りから始める」のが苫米地式コーチングなのです。
ゴールは自分の利益と関係ないものなのです。
楽しいとかはあってもいいのですが、そこに劣等感を満たすような利益が含まれていては、根本がマイナスです。
しかし苫米地式コーチングは、劣等感から解放された、存在の全肯定から圧倒的なポジティブな情動でゴールを設定するのです。
コーチングは、悟りを超えたところにあるのです。
エフィカシーが上がらないと悩んでいる人は、自分の可能性から目を背けているのです。
「自分はどんな人生(生き方)を選んでもいい。でも楽しそうだからこれを選ぼう。」という心の軽さが大切なのです。
ぼーっと生きてていいのです。
ゴールが見つかれば、それは幸せなことです。
あなたにはその可能性があります。人生楽しくしていきましょう^ ^
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