東京藝大入試問題『「絵」を描きなさい』
こんにちは。今回は、東京藝術大学の入試問題の話から、記事に入っていこうと思います。
前にTwitterで、東京藝術大学の入試問題について、面白いこと言っている現役藝大生のツイートを見つけました。
2020年の東京藝大の二次試験の入試問題は、「『絵』を描きなさい」というものだったらしいです。
まあ、いろんな専攻があると思うので、全て共通なのかは知りませんが。
まあ、それはともかく、僕はこのツイートをみたときに、僕が哲学でやっていることとすごく似ているなと思いました。
「絵」を描きなさいという出題だと、実質的には何を書いてもいいんだと思います。
しかし、描く絵のテーマは「絵」でなくてはいけません。
ということは、「絵とは何か」というテーマに関する抽象度の高い思考が求められているということです。
そして、その思考を表現する技術を持っているかということが問われているわけですね。
僕は絵を描いたことはほとんどないので技術に関して述べることは何もありませんし、このメルマガの趣旨からも外れているのでスルーしますが、「抽象度の高さ」と「表現することができること」はとても重要です。
まずは、「抽象度」から考えていきましょう。
「抽象度」とは、単純にどれだけ熟考を重ねたかではありません。
ここで、抽象度をあげるということ以前に、対象を捉えるということを考える必要があります。
そもそも、それぞれの藝大受験生が抱いている「絵」というイメージは同じでしょうか。
僕は、当然全く違うだろうと思います。油絵を描く人と日本画を描く人とでは、両方とも絵描きであることに違いはありませんが、抱いている「絵」のイメージには大きな違いがあるでしょう。
ということは、「絵」の抽象度を上げて考える以前に、我々は「絵」という対象そのものを自らの興味関心に沿ってしか捉えることはできないのです。
その上で、その自分が思い描いた「絵」という概念について、掘り下げて考えていくと、そこには西洋的な文化の中に埋め込まれた絵なのか、それとも日本の文化の中に埋め込まれた絵なのかという違いがまず大きく現れてくるはずです。
そして、その文化は、絵そのものが表現しようとしている価値に大きな影響を与えているはずなのです。
たとえば、九鬼修造の『「いき」の構造』という本には、「いき」という日本的な価値がどのようなものであるかということが書かれており、日本文化のどのような点にそれが現れているのかということが示されています。
「いき」の感性を表現することは、おそらく西洋的な絵では不可能です。
なぜならば、西洋の絵の飾り立てるスタイルがもうすでに「いき」という価値から逸脱しているからです。
逆に、西洋の絵画が描こうとしているこの世の美しさの背景にあるキリスト教的な神の完全であり普遍であるような次元は、日本の永遠を否定しがちな文化に根ざす表現方法では描ききれないのではないでしょうか。
音楽でもそうですよね。西洋のクラシック音楽は抽象空間に大きな絵を描こうとしますが、日本の雅楽はまた違った感性に根ざしています。
しかし、だからといって、ユニバーサルな音楽や絵画が不可能かというと、そういうわけではないのではないでしょうか。
僕らは、西洋画や日本画といって区別することはあっても、もしくは何千年も前の人類が暮らしていた洞窟にある落書きを見ても、「絵」だと認識することができるのです。
このこと自体はものすごく不思議です。
音楽もそうです。
クラシック音楽、JPOP、ラテン系の音楽、アフリカやインドの民族音楽、ジャズなど、すべて我々には「音楽」に聞こえるのです。
絵が単に色の集まりではなく「絵」に見えるのはなぜなのか、音楽が単にいろんな雑音が鳴り響いているように聞こえるのではなく「音楽」に聞こえるのはなぜなのか。
少なくとも僕にとって、これはとても不思議なことです。
しかし、このような意味で不思議に感じられるということは、運命というか、人間の本質に根ざしているということでもあります。
きっと、人間は「絵」を描くものなのでしょう。
そして、きっと人間は「音楽」を奏で、聴くものなのです。
人間の本性(ほんせい)に根ざした情報伝達の媒体が絵であり、それは文化によっていろんな現れ方をしているのです。
おそらく、東京藝術大学の教授たちが受験生に求めていた抽象思考はこのようなものではないかと思います。(僕の抽象思考はもしかしたら東京藝大合格には程遠いレベルかもしれませんが笑)
僕は、こういう抽象度をガンガン上げて思考していくということを大学院でずっとやっているのですが(笑)、僕の表現の仕方は文字なので(最近は論理学を学んでいるので、修士論文は形式論理を使いたいと思っていますが)、なかなか楽です。
東京藝大の人は、この表現するところを絵を描く技術でやるのですから、すごいですよね(笑)。
本当に脱帽です。
しかし、この「表現する」という部分にも、方法論の違いを超えてユニバーサルに考えなければならないものがあるのです。
それは、相手のスコトーマを外すということです。
哲学は、天才ではない凡人の初心者が最初理解するのにとても時間がかかる学問です。
哲学を学ぼうとすると、大体はプラトンの著作を読むところからスタートすると思うのですが、プラトンの対話篇を読んで彼が本気になってエネルギーを注いでいるテーマについて「共感」できるようになるには、そこそこ努力が必要です。
そして、ニーチェやウィトゲンシュタインを、現代の社会に何の疑問も抱いたことのない思考停止状態の一般人が理解しようと思ったら、なかなか時間がかかることでしょう。
しかし、一度彼らの哲学を理解してしまったら、もうそれ以前の人生に後戻りすることはできません。
彼らは理解した人間の世界観に大きな影響を与え、人生観を覆す力を持っているのです。
それが哲学の力であり、芸術の力であり、音楽の力だと思います。
しかし、理解してもらえなければ、抽象思考をした彼らの存在は社会で意味を持ちません。
つまり、瞑想だけしている瞑想ジャンキーと同じで存在価値が社会的には認められないのです。(まあ、社会的に認められなければならないということはないのかもしれませんが)
まあ少なくとも、藝大に受かるためには社会的に評価される必要がありますから(笑)、他人に理解してもらわなければいけません。
他人に理解してもらうということは、他人の世界観を覆すということです。
僕らは、必ず何らかの世界観を持っています。
それは、ゲシュタルトと呼ぶことができますが、それがなければ僕らは世界をカオスとして捉えることになってしまい、生きる意味を見出すどころか文字通り何も認識することができません。
人間は、放っておいたら必ずゲシュタルトを作って、カオスにコスモスを見出す存在なのです。
その人間のコスモスを変更して初めて、相手に「理解」してもらうということになるのです。
まあ、芸大の先生の抽象度の方が高ければ、「あ、そのレベルね」って感じで理解されると思いますが(笑)
「理解するとはどういうことか」ということも、やはり「絵とはなにか」ということと関わっているのです。
「理解できる/理解してもらうことができる」ということは、抽象思考が身体性を伴っているからこそできることなのだろうと思います。
つまり、「絵」は「音楽」と同様に、人間の存在の全抽象度に影響を与えているのでしょう。
では、絵を描くことが上手くなるということは、どういうことなのでしょうか。
芸術に関わる人はきっと読んでいないと思いますが、僕なりにその指針はかなり見えてきました。
ここまで抽象思考をした上で、「いつになったらコーチングの話が始まるんだ」と思っている方がいると困るので最後にコーチングとの関連について書きますと(笑)、現状の外側のゴールは「絵」についていま僕が書きながら行ったような抽象思考の末に見つかるものなのです。
実は、今回のブログは、抽象度をあげるということのデモンストレーションをしようと思って、何かテーマを探して前に見たTweetにしようと思い、書き始めたのです(笑)。
なので、ここまで書くまでに、僕は割と抽象思考をした気がします。
こうやって抽象度を上げていく思考こそがゴールを発見する脳の使い方であり、それを追体験してもらうことで、コーチングのマインドセットを手にすることができるのではないかと思います。
というわけで、忙しくてだいぶ遅くなってしまいましたが、先週の金曜日に配信するはずだった分の記事をこれで配信したことにします(笑)
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